上一人のつつしみ、下万人におよぶと存じられ候事

●義直は家康の九男、幼名は五郎太丸といって駿府城内で育った。生母は相応院お亀の方、家康晩年(五十八歳)の子供だからかわいがられて成長した、いうなれば義直は生まれながらのプリンスだったといえる。

 

●初陣は十五歳のときの大坂冬の陣、少年ながら武勇で知られた、というが、お付の連中の作り話だろう。義直はむしろ学問好きで敬神崇儒、父家康にも実に敬愛深く接している。

 

●甲府二十五万石の太守に封じられて以来、清洲城主、ついで名古屋に移って尾張藩六十一万石を領して徳川御三家筆頭の地位につく。名古屋の城は、家康の命で西国の大名たちが築いた名城だが、そのまま義直に与えられたのをみても、家康の義直への愛情が察しられる。

 

●幕藩体制初期の頃のプリンスたちがどのように育てられたか、現代のわれわれからみても興味深いが、義直はそのなかでもできのいいプリンスだったことは確かである。

 

●だからというわけではないが、領国の統治にも大いに文教政策に力をいれている。その義直が子息光友に対して教えていうには、「その方は、正直をもっぱらにして何事につけても慎みを守ることが大切だ。上一人がつつしめば、それは下万人に及ぶと知れ。上が曲がったことを考えれば、下の考え行いも曲がってくる」と。

 

●藩主は、すべての姿を家臣たちから見られている、と教えているのだ。

 

●もっとも義直という人物は、案外、字義どおり、この言葉どおりに尾張藩主としての生涯を過ごした人らしく、1650(慶安三)年に彼が亡くなると、家臣の寺尾直次ら四人のものが殉死している。この頃になると、領主の死に家臣が殉死することは少なくなっていたから、彼の徳を慕うものが多かったといえよう。

 

●冒頭の言葉は「徳川義直遺言状」のなかにあって、死去の二ヵ月半ほど前にしたためられたという。