懈怠は死なり

●森村市左衛門は、1876(明治九)年に早くもアメリカに乗り込み、ニューヨークに「日の出商会」の看板を出した。対米貿易のパイオニアとしての森村の事業がスタートしたのである。

 

●言葉も風俗習慣も異なる開国まもない先進国で、現地の人間を使って事業経営を推し進める森村の胸には、
(アメリカが日本に来てかせぐなら、こちらからも出かけてかせいでやる)
という激しい思いがあった。

 

●まさに「懈怠は死なり」である。怠けていれば、日本は列国のえじきになってしまう。森村は、政府にたよることなく、自力で国際化の道を切り開き、国際競争をしかけたのだ。

 

●こうした森村の国際感覚は、福沢諭吉に西洋事情を聞くことで目覚めたのである。

 

●ニューヨークに腰を落ち着けた市左衛門は、先進国のビジネスを必死に学び取り、対等にわたりあえるまで自分を磨いていった。

 

●のちに森村は、国際ビジネスの場で、日本の実業家が失敗するのは、商人というと、かけひき、ごまかしをうまくやる必要があ
り、そのためには人格を下げなくてはならないように思っているからだという意味のことを語っている。

 

●日本的商人の感覚と、先進国のビジネスマンの感覚の間には、長年の商習慣の違いからくるギャップがあり、開国まもない当時においては、ひときわそのギャップが障害になったのであろう。

 

●森村は、誠実さと正直さという、日本では商売に不向きとされる姿勢でアメリカのビジネスマンと接した。そのため信用を得、森村の振り出す手形は現金扱いを受けるまでになった。

 

●森村は、引用の言葉で部下をよく戒めていた。独立独行、不言実行のパイオニアにとって、懈怠は人を死に至らしめる敵である。人はその敵の手に捕らわれやすい。その手をふりきって、目標に向かって力強く行動できる者だけが事業を成功させることができるのである。