人間は反撥心が大切である

●日産自動車はかつての「日産コンツェルン」の流れを汲む企業だが、この日産(日本産業)コンツェルンを築いたのがこの鮎川義介である。

 

●この鮎川の事業家への道を見ると、この「人間は反撥心が大切である」という言葉の重さが知れるのである。

 

●鮎川は明治十三年、元老井上馨の姪を母として生まれた。父親も山口県の素封家の生まれである。彼自身も東大工学科に進みエリートコースを歩めることが約束されていた。

 

●しかし、彼はそれに満足しなかった。彼の悪くいえばヘソ曲り、よく言えばこの反撥心が頭をもたげてくる。約束されたエリートの
道を歩むのが彼には我慢ならなかったのである。

 

●東大工学科を卒業すると、彼は芝浦製作所の職工として就職する。
「将来独立して事業をやることを決意していたから、そのために必要な基礎を身につけるために、職工の道を選んだのだ」
と、彼は後年、当時を回想して言っているが、彼の反骨ぶりがわかろうというものだ。

 

●こうして鋳物工として働いた彼は、三年後渡米し、可鍛鋳鉄の製造技術を身につけ帰国、明治四十三年戸畑鋳物株式会社を設立した。

 

●同社は、その後第一次世界大戦の戦後景気にのって大発展し、戦後不況も乗り切り、義弟がおこした久原鉱業所の再建に乗り出すことになった。

 

●大正十五年の暮れのことである。再建に取り組んだものの、市中銀行は再建資金の融資を拒み、大きな壁にぶつかっていた。が、鮎川はへこたれない。
「銀行がその気なら、おれにも考えがある」

 

●鮎川は持ち前の反撥心に、闘争心を燃やして、「公衆持株会社」つまり、大衆に株を持ってもらうことで資金を調達し、久原鉱業所を立て直すことに成功したのである。これが、日産コンツェルンの始まりである。この反撥心がなかったなら、事は成らなかったのである。