身上の届けは、昇り階上るように
●安土桃山から江戸時代前期の大名、肥前佐賀鍋島藩の初代藩主が直茂である。
「身上の届け(立身出世)は、昇りの階段を上るように、一段一段を上るがよい。急ぐあまりに二、三段をかけ上るような立身出世を考えると、とかく階段を踏みはずして転落しかねないぞ」
と、直茂は教えている。
●後年になって肥前藩士山本常朝の談話を筆録した『葉隠』(成立年代は享保元年=1716年)には、次のようなくだりもある。
●「若いうちに出世を急ぎすぎた者は、たいしたこともできないままに終わることが多い。たとえその人物が生まれつき利口であって
も、上に立つに若すぎると、器量が足りずに人々が心服しないからである。だから人は五十歳ぐらいから、人生の仕上げにかかるがよい。人から出世が遅れているようだと思われる者の方が、最後にはよい仕事をなしとげるものだ」
●武士道の教科書のようにみられていた『葉隠』については、初代藩主直茂に対する、家臣たちの敬仰の心が、随所にみられるのは確かである。直茂の生き方は、彼らからみて戦国武士の「規範」でもあったわけだ。
●直茂は肥前の戦国大名、龍造寺隆信につかえていて、その家老にとりたてられたのが三十五歳のとき。以来五十三歳になるまで十八年間もその職を守って龍造寺家に忠義をつくしたのだから、堅実な人柄の武将だったのであろう。
●そのような彼が突然のように表舞台に躍り上るのは、島津勢と戦った主君隆信が戦死してからで、鍋島直茂は龍造寺家の実権を手に入れるとともに、当時の天下人豊臣秀吉の九州平定に従って島津攻めに功をつくすのである。
●秀吉は初め直茂を長崎代官にとりたてたが、のちに龍造寺家の相続人として肥前佐賀を領国とする大名にとりたてている。直茂は五十代後半に入る年齢であった。その後、直茂は文禄・慶長の役では加藤清正と組んで朝鮮に出陣、鍋島家の武勇をみせている。
●このように彼自身の経歴をたどってみても「身上の届けは、昇り階上るように」というのは納得できる。けっして急ぎ足で人生を駆け抜けたりはしていないのだ。むしろ順序をふんで、客観状勢をよく見究めたうえで初めてスパートをかけている。どこか徳川家康に似た生き方を見る思いすらする。