貴人に対してはたとい千万の道理ありといえども理強く申すべからざること

●武田信繁は信玄の弟。父信虎は信玄をうとんじて信繁を愛したが、信繁は兄に対して恭順の心を失わず、信玄の内外の経略をよく補佐した。甲州法度(信玄家法)の制定にも大きな役割を果たしたが、上杉謙信との川中島の戦いで討ち死にした。

 

●信繁が「貴人」といったとき、念頭には兄の信玄の姿があったと思われる。今日的に意訳すれば、上司に対しては、いくら自分のほうが正しいからといって、相手の立場がなくなるように打ちのめすことはしてはならない、ということである。

 

●「上司をやっつけた」
といって得意になっている人がいるが、会社の人間関係を勝ち負けレベルで考えてはいけない。上司や先輩にも、重大な誤りを犯すことがあるだろうが、メンツを失わせ、まったく逃げ道がないような攻め方をすれば、手負いのなんとやらで、シッペ返しにあいかねない。これはミドルからローに対してもいえる。

 

●田実渉元三菱銀行頭取がまだ丸ビル支店次長だったときである酒造組合から融資を申し込まれ、詳しく調査した結果、田実は四千万円を貸し付ける方針を決めた。しかし、その前に頭取の決裁をあおがなければならない。

 

●そのころの頭取は高木健吉で、酒もタバコもやらない硬い人物であった。田実が融資の稟議書を持って行こうとすると、先輩の常務に呼びとめられた。
「キミ、頭取と議論するのはいいけれど、最後は負けてくるんだ。決して勝っちゃだめだよ」

 

●田実は頭取の前で、酒が以下に大事なものか弁じたが、高木は、
「そんなところに貸すなど、もってのほかだ」
と、まったく貸す気がない。しかし、田実は頭取と議論することなく、叱られて引き下がってきた。

 

●その三、四日後、四千万円の融資はOKの決裁がおりた。まさに「上司にはいいつのるべからず」である。