人のやらぬこと、やれぬことのみをやった。そしてそれで成功したのである

●堤康次郎は明治二十二年に滋賀県に生まれた。少年のころから事業欲に燃えていた。しかし、二十代のころまでは、儲かりそうな仕事に見境なく手を出したが、そのほとんどが失敗に終わった。

 

●そこで康次郎は、三十歳になったとき、これまでのやり方を反省してみた。
(儲けよう儲けようと考えていたのがいけない。自分は儲けなくてもよいから、少しでも世の中のためになることをしよう)

 

●康次郎は人生観、事業観を変えて、再出発することにした。そうして手がけたのが土地開発である。まず、軽井沢の開発に着手した。大正七年、三十歳のときだ。土地開発という事業が、多事多難なものであることを、康次郎は骨身にしみて知った。

 

●道をつくり、水道を引き、水力発電所をつくって電灯をつけ、電話を架設し、別荘を建て、ホテルも建てないと人は来ない。康次郎は、持ち前の行動力を発揮して、次々と仕事を片づけていった。開発が進むと、軽井沢は注目されるようになった。

 

●タイトルの言葉にあるような「人のやらぬこと、やれぬこと」で、社会のためになることをはじめてやり遂げたのである。

 

●軽井沢の開発で自信をつけた康次郎は、翌年、箱根に進出した。強羅(十万坪)、仙石原(十万坪)、湖畔の箱根町(百万坪)と土地を買い、さらに元箱根、湯の花沢と箱根全山に開発事業を広げ、大正九年三月、康次郎は箱根土地株式会社を設立した。

 

●軽井沢、箱根の開発で成功し、巨富を得た康次郎が、次にねらいをつけたのが東京近郊である。

 

●大正九年、目白に文化村を建設
 大正十二年、渋谷に百軒店を開設、新宿に新宿園を完成
 大正十三年、大泉学園都市を建設、つづいて、小平学園都市、
       国立学園都市を建設

 

●康次郎は、こうした土地開発に、鉄道の必要性を痛感し、鉄道事業に乗り出すことになったのである。

 

●康次郎は、世の中のためになり、人のやらない不毛地の開発を手がけたことで、事業家として大きく育っていった。同じ事業活動をしてもその人生観、事業観の持ち方の違いで、失敗もすれば、成功もするのである。