勝つ、勝つと思えば勝つ
●豊臣秀吉は、勝負に臨んで、自分にこういいきかせていたという。勝つことを信じて決断し、決断した後は、勝つためにあらゆる努力を惜しまない。
●果敢な決断力と行動力で、不可能を可能に変じていった秀吉の、痛快な生きかたをほうふつさせる言葉である。
●秀吉の果敢な決断と戦闘が信長と三万の兵を窮地から脱出させた一例を「金ヶ崎退き」にみてみよう。当時、秀吉はまだ木下藤吉郎と名乗っていた。
●1570(元亀元)年4月、信長が越前の朝倉義景を討つべく金ヶ崎(敦賀市)まで軍を進めたとき、思いがけないことが起こった。信長の妹、お市の方の夫である近江小谷城主浅井長政が寝返って、義景の応援のために背後から信長を攻撃してきたのだ。信長は義弟の長政が自分に反旗をひるがえすなどとは思ってもみなかった。
●信長はただちに撤退を決意した。
「誰ぞ、しんがりを努める者はいないか」
信長は、武将たちに命じた。だが、互いに顔を見合わせるだけで、一人として申し出るものはいなかった。無理もない。戦況はあまりにも悪かった。北へ前進すれば日本海にぶつかる。東西は山にはさまれている。そして南から長政が攻めてくるのだ。とどまれ生還は期しがたい。
●そうであればこそ、藤吉郎はしんがり軍として残る決意をした。藤吉郎は武功をたてる機会を狙っていたのだ。(その時が来た)と思った。藤吉郎の申し出に、信長は言葉を失った。武将たちは息をのんだ。
「許す」
信長は、それだけいって馬上の人になり、「猿、死ぬではないぞ」と叫んで、馬にむちをくらわせた。信長の目に涙があった。
●全軍が無事撤退をしたのを見届けると、藤吉郎はわずかな兵を率いて果敢に敵とわたりあい、ころあいを見はからって退却した。退却しながら次々と藤吉郎の兵は討ち取られていった。信長軍の最後に撤退していった青年武将の徳川家康が、兵を率い戻り、藤吉郎の兵と合流し、敵と戦いながら逃げ延びていった。
●藤吉郎の命を賭しての決断と戦闘は、見事に報われた。信長は、京へ戻った藤吉郎と家康に
「二人がいなかったら、信長は生きてはいなかったろう」
と労をねぎらった。
●家康と生死をともにして戦い、親交を深められたことも、藤吉郎にとって、のちのちプラスになった。
●秀吉の決断には、藤吉郎時代から最後に勝利を信じる明るさがあった。だからあれこれ思い迷うことなく、果敢に決意し、情況が変わっても機敏に対応して切り抜けていくことができたのだ。
●秀吉のこの生き方は、ビジネスの場で決断の必要が生じたとき、大いに参考になる。決断に迷いや狂いをなくすために、秀吉のように、「勝つ、勝つと思えば勝つ」と自分に言い聞かせるとよい。あとは、勝つべく最善をつくすのみである。